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おっぱいがほしい!

えー。
東京新聞、北海道新聞などの朝刊
 で八月から

桐野夏生さんの小説「とめどなく囁く」連載がはじまりました。
じわじわと怖くて目が離せない展開となっております。
挿絵を担当しております。よろしくお願いします。

そして猪と鹿の処理場建設、八月九月は大変でした。
何度か高松に資材や設備を買い付けにも行きましたし。
それで一日潰れますからね。私の軽トラには冷房もないので。
おかげさまで建屋はだいたいできました。

そして工事が佳境に入った頃、山羊のカヨが三度目の出産しました。

毎日の肉体労働が多く、疲れすぎていて、記憶も飛びがちです。
しばらく読書からはなれていました。ま、健康ではあります。とにかく眠い。
いろいろ送本していただいてるのに、積みっぱなしです。
すみません。ごめんなさい。メールの返事も遅れがちです。
「タラブックス」を読んだらすこし脳が読書に戻ってきました。

というわけで
『おっぱいがほしい!-樋口毅宏 新潮社
小説家樋口毅宏さんの育児エッセイ読みました。

面白かったです。地上波にあんまりチャンネルを合わせない私でも、
樋口さんのパートナーである三輪記子さんを何度も見かけてて
あーこりゃ樋口さんが嬉々として
そしてへとへとになりながら子育てをしているのであろうと
思っていたら、そのまんま予想は当たりでした。
御疲れ様です。

育児ネタについてはそれなりに意識して読むようにしているので
大変さなど、驚くことはなかったです。
ただ、最近知ったんだけど、知らない人が意外と多い。
「卒乳・断乳」の話題を出したら出産育児経験のない女性たちが
え、なんですかそれ?みたいな反応になり、仰天しました。
いちおう人類がどう生まれて育つのか、現代日本社会において
役場だの教育機関だの病院だのとどんな手続きをしながら
どんな成長過程を歩むのか。そして育てる人間がどういう
プレッシャーや困難にさらされるのか
というのは、必携の知識だと思う。
でないと困難を軽減してみんなで負担する政策に反映できないし。


常にだれでも目に付くところで誰かが話していてほしいと思いますし、
男の人の育児もまだまだ珍しいのでどんどん書いてほしい。

私は子供を産みたかったと思ったことは限りなくゼロに近いし、
産まなかったことを後悔することもほとんどない人間ですが、
子どもが嫌いなわけでもないし、むしろ好き。
女の人がこどもをもっと子供を産める社会になってほしいと
心の底から思っている。

ただひとつだけ。
子育て出産にまつわる発言で
母性の正義、礼賛、そして優位を語られると
げんなりしてしまう。
どちらがいいとか悪いとかいう問題ではないし、
母性が毒に転じる危険だってあるのに。

出産をしないと一人前ではないというスタンスで語られると、
埋められない溝を感じてしまう。

出産をしない女性が、一切ノータッチで出産育児のことに背を向けて知ろうとしないのも
上記の、それも結構無意識な押し付けに遭うのが嫌だからなのではないか。

そこで本書である。

その手の押し付けは、なるべくしないように配慮されている(樋口さんはそういうのに敏感なひと)。
家族愛とか苦手な人も、この本は割と大丈夫かと。人それぞれですけど。

多少?かなり偽悪的ではある(ひぐち作品の特徴。『日本のセックス』を読んでから本書を読む方がいいかもしれない)

男性の目線から育児作業が描かれるので、とてもフラットに大変さが伝わる。たぶん女性は「女だからできてあたりまえ」という気負いと葛藤がどこかにあるのかもなと思いました。ま、経験者じゃないからいろいろ読んだだけの分析だけど。

パートナーの三輪記子さんの破天候ぶりを読むと、産んだら自由を奪われるとかそういう不安を抱えているひとは
たぶん救われて、自分も協力してくれパートナーを見つけて産んでみるかという気になるかもしれない。保証はしないけど。
『母および妻』という圧力から、自分をいかに守るのか。それは戦いなのだと、彼女の行動から学べるかもしれない。保証はしないけど。

三輪さんに於かれましてはさらなるめちゃくちゃな武勇伝を更新していただきたいと、個人的には思っております。

御二方、さらなるご活躍を。

発売からかなり時間たっててすんません。





by riprigandpanic | 2017-10-10 09:31 | ほんっ

タラブックス

「タラブックス」を読んで思ったことを徒然に。

http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=13808



印刷や製本部門もある、インドの小さな出版社の営み

手漉きのコットンペーパーにシルクスクリーンで刷られた少部数絵本がどうしても注目されがちだけど、そうではない本も刊行している。



本作りに関わる人間ならば、誰でも考え続けていることだろうと思うけれど、書物は中身とデザインを含む造りと、部数のバランスが肝要。タラブックスの代表者の二人、ギータとV.ギータのインタビューからそこにこだわっていることがよく伝わってくる。

日本の多くの商業出版(どのくらいのレベルかというと、いささか古い定規ですが、トーハン日販の流通に乗るくらい)の場合、本の汎用型のようなものにテキストやデザインをはめ込んで作っているようにも思え、それに疲れ(出版不況になって以降は特に)、疑問を呈する人たちが、タラブックスの本にある種の理想郷を見るようだけれど、

日本にも様々な規模の本を作る人たちがいて、一人出版社もあれば、限定手製本をきっちり作る人もいるし、ずっと以前からいたし、時代の趨勢はあっても、アーテイストブックからミニコミまでいろんな「本」があったし、あり続けている。

私はむしろそれらメジャーな商業出版以外の、ひとり出版社とかアーティストブックとか、手製本とか、ミニコミでもいいんだけれど、そんなところで作られる本たちが、タラブックスのような、世界のいろんなところにファンを持つくらいの吸引力なり熱量なりを持つ本を作ってない、もしかして作っているのかもしれないけれど、話題として届いてこない、もしかしたら世界相手に売り出してないだけかもしれないけど。それか私が知らないだけであるのかな。いやあったらそもそもこの「タラブックス」はこんな書かれ方をしないだろう。

それは一体何故なんだと考え込んでしまったのでした。

彼女たちの従業員への温かな視線、対等に、ノンヒエラルキーでという気持ちだとか、大量な発注が来ても増資も増員もしないとか、そういう働き方の姿勢も実に心地よいのだけれど、一番響いたのは、すべての作り手との対話をものすごく丁寧に行っているというところ、かなあ。それが足りない、のかなあ。国内外問わず多くのアーティストブックに多発する、本にするという必然が見えないのは、これのせいなのかなあなどと考えてみたり。


で、タラブックスを羨むよりは、今の日本で、一冊でもバランスのいい、手の温もりと熱意のこもった本を作りたいと、思った方がずっといいと思うのでした。

と言いつつ、現在の私は獣肉屋さん目指して土木工事の真っ最中なのですが。でもまた本を作りたい気持ちが湧いて来て、我ながらびっくりです。

小豆島でもタラブックスの展示があります。ご興味ある人はぜひ。

by riprigandpanic | 2017-09-18 20:46 | ほんっ

生きております

またもや間が空きましてすみません(←もはや決まり文句になりつつあり)

小豆島に移住しました。
毎日DYYに追われています。今度の家はホームセンターまで一分、というわけにもいかず、
一時期は毎日島の中心部土庄にあるホームセンターに通うという具合でした。

しかし人間あれこれ学ぶもので、千葉にいるときよりは大工仕事が上達しているように思え。

さて前回のブログに書いた アクト・オブ・キリング 以来しつこくインドネシアが気になっており、つい書評会議で入札して、先週ご紹介したのが、
「性を超えるダンサー ディディ・ニニ・トゥオ」

性を超えるダンサー ディディ・ニニ・トウォ

福岡 まどか / めこん



えー、あんまり映画と結びつけて書くのもどうかと思うので書評では短評でしたし触れませんでしたが、インドネシア、行った事はあるけれどそれほど詳しくない、大多数がムスリムなのだが中東とはずいぶん気質が違うというくらいの認識の人間にとって、あの映画はともかく衝撃でした。ずいぶんどころかまるっきり違う。

で、衝撃のひとつが、ヘルマンがなぜ女装して出演するんだ??というもの。


発言からしてヘテロセクシャルでマッチョな、でも外見は上島かマツコかみたいなヤクザの若頭みたいな人が、公に女装姿を撮らせる。これに頭かかえました。いや、本人が嗜好として楽しむならまだわかるというか。楽しませるためにやるのだとしても、たとえ本人がギャグ?を愛するひとだったとしても、ギャグも結局は土地の文化に根ざすものだし。イランでやったらと考えるだけでゾッとするわけで。アラブの春以前のエジプトででも、想像できない。いや私個人は見るの好きなんですけどね。

こちらの本で
ジャワ宮廷の舞踊や舞台に女形の伝統があったこと、そして現在独自のやり方で国際的にも国内でも活躍する女形のダンサー(華人系でプロテスタント)がいるということを知りました。それ以上は類推にすぎませんが、こういう国民的なスターがいてコメディも演じて、美しいダンスも披露して国民が楽しんでいると。なるほどそれならヘルマンの女装もわかるか……と、自分なりに納得したわけです。

本書でも附属DVDのインタビューでも、彼の私生活の性については触れられず、ただイスラム色が強くなればなるほど、女形として舞台に立つことへの難しさもあるようなのだけど、本人はあまりそこすらも強調しない。むしろ華人として受けた1965年の迫害についてを語る姿、華人の血を引く者であることをあえてカムアウトした上で、さまざまなルーツがまざるインドネシア人としての矜持を語る姿の方が、ずっと前面に出ていて。あーやっぱりそっちなのですねとシンとした次第。

こうやって少しずつ断片的にだんだん他国の別の面が見えてくるのも悪くないもので。
そのうちゆっくり旅してみたいです。

インドネシア、もうすぐ選挙です。
by riprigandpanic | 2014-07-08 11:06 | ほんっ

"ACT"の闇鍋セラピー

またもや間が空きましてすみません(←すでに決まり文句になりつつあり)

なんとか引っ越し先が決まり、準備と仕事の整理などでバタバタしているところですが、二回も見てしまった映画があります。すでにたいへん話題になっております。

アクト・オブ・キリング

イメージフォーラムで大ヒット上映中

いろんなひとの感想や映画製作にまつわるエピソードなどを拾ってたんですが、膨大すぎて時間がなくなってきたので、映画をどう見たかを中心に書きます。あらすじ、映画の感想、その後のことなど、こには貼りませんが、興味あるかたは、ご自分で探してみてくださいませ。

1965年、インドネシアで起きた共産主義者虐殺というか粛清について、加害者に当時どのように人々を手にかけたのか、虐殺の模様を演じてもらう様子を撮った映画です。

そもそもトラウマとなったことを演じさせるセラピーというのは、被害者のためのものと思っていた。

加害者が演じるとどうなるのか。加害者は嬉々として虐殺の思い出を語り、こうやって殺したものさと身体を動かし始める。ここだけで脳天を撃ち抜かれるほど驚くのであるが、演じては映像をチェックし、こんなものではなかった、もっとこうだったと、より「リアルに」演じていくのである。なんというか、演技(ACT)の泥沼。そこで加害者に心境にどんな変化が起きるのかが、一応映画の柱となっている。

千人は惨殺したという加害者にしてこの映画最大の協力者、アンワル・コンゴに向けられるカメラの状況は、主に三つに分けられる。
1当時を再現して演じているとき。
2自分や誰かが演じているのを見ての感想を求められているとき。
3 誰かが演じているところを横で見ているとき。

1は明らかにカメラの前で演じるわけだからいいとして、問題は2。アンワル自身、カメラが自分に向いてることを自覚している。このときに彼が発する言葉を、そのまま「彼の真実」として受け取っていいのかに、悩んだ。結論としては、いまだ半信半疑。いや、用意されたセリフを言ったと思っているわけではないんだけど。

どうにもどこからどこまでが演技なのか、演じているうちに本人自身がわからなくなってるんじゃないかと思うのである。もちろん観る側もわからなくなっていく(ように編集されてるとも言える)。終わるころには演技なのかリアルなのか、もう大混乱(だから二回観た)。

かつて一度だけカメラを向けられドキュメンタリーを撮られたときのことを思い出すのだ。長くカメラを向けられれば向けられるほど、どこかでカメラに応えようとする自分がでてきてしまう。
カメラと、カメラの向こうにいるディレクターがどういう質問を投げかけたのは、作品に反映されないことは、多いけれど、問いかけ次第で、いやディレクターとの人間関係、いや表情や態度ででも、でてくる言葉も表情も、変わる。私の場合ディレクターが二人いたため、嫌でも実感してしまったのだった。

さらにカメラの向こうに誰がいるか、ここに立てだのあっちからこう歩けだの変な音が入っちゃったからもう一回、などと指示されることでも、出てくる言葉は、やっぱりどこか演技になっていく。それが私はなんとも嫌で嫌で、恥ずかしくて、むきになって「感動的な言葉なんて絶対言うもんか」となったんだった。逆に発動する人も、当然いるだろう。

それが悪いとか間違っているというわけではなく、そうやって作らなければ、ノンフィクションだろうがなんだろうが、映像作品は成立しない(いや、するのもあるかもしれないけれど、ものすごーく観る側に負担を強いる映像になるだろう)のではとも思う。
この映画に関しては「演じているところを撮る」ことで、よりカメラの前に立つ人が演じてないときも演じているように見えるのだ。いや、やっぱり演じてる?

それがすごく面白い。
演技という行為は、観客に見せて観客になんらかの心的変化を生じさせるもんだと思っていたけれど、役者の心身にも、演ずることで変化は起きるのだと、改めて思い知らされ、役者ってずいぶん面白い職業だなあとはじめて思った。

しかし。
私が一番魅入ったのは、一回目に観たときから、3なのだった。これが断然面白い。自分にカメラが向けられていると意識せずに、ディレクターからの問いかけもなく、ただ誰かの演技を横で眺めているアンワルやヘルマン(現ギャングの頭)やアディ(もうひとりの虐殺者)たちの、なんとも言えない表情。ときには画の中心にすらいない、たまたま映ってるようなときの、表情のゆらぎ。当時のことを思い出してるのか、なんなのか。微妙に歪む。暗く翳る。うしろめたいのか、記憶に引き込まれるのか、単に気まずいのか、わからないけれど、落ち着かない瞳。
 
 撮影を取り囲む群衆の表情もすごかった。笑いながら、怖がっている。わずかに引きつり、歪む笑い。自分にカメラが向いてないと思っているときの、さまざまな人によぎる表情に、数十年前の虐殺の、そしていま君臨するギャング集団への恐怖の大きさが、見て取れて、なによりもゾッとしたのだった。どんなセリフよりも回想よりも、リアルに重苦しく迫る。
 百万という人々が虐殺された、3桁、4桁の人々を虐殺した、その後を生きる人たちの、なにげない暮らしや笑いに潜む暗闇。

 いまだに気になるのは、アンワルたちが撮りたかった虐殺再現映画の全貌が知りたいってことだ。ちゃんと撮り終わり、編集し、公開したのか。本映画では、その映画のメイキングを撮ると言って回していたカメラの映像をフルに使って作られているのです。

彼らが映画で何を伝えたかったのか、謝罪ではなく正当化であることは、映画を見ていれば一目瞭然なのであるが(加害者は謝罪をするべきなどと言い立てたいわけではない。これまでの立場とトラウマを乗り越えての本当の反省と謝罪には時間がかかるだろうし。直接の加害者だけを矢面に立たせるのは、どうかと。むしろそれをいうなら当時のインドネシア政府のみならず、アメリカや日本政府の関与についてどうするかとか、もっと大きな視点で語られ続けねばならない)。

それと「ヒットする映画には娯楽も必要」ということで挿入しようと撮影した、なんとも突き抜けたインドネシア独特?の色彩センスやダンスシーンが奇妙にシュールで美しくて、あれをアンワルたちが、どうまとめ映画に仕立てたのかが、大変に気になるのである。

にしても悪趣味加減も大いに含めて、ジョシュア・オッペンハイマー監督、実に恐ろしすぎる才能の持ち主であります。

 
by riprigandpanic | 2014-05-11 16:12 | ほんっ

あたしだってあるあるって言いたい……

yomyomにて、
「卒業できない私たち」というルポルタージュを連載しています。

不惑の四十を過ぎても、やめられないトキメキ趣味娯楽をめぐるルポです。
一昔前だったら眉をひそめられたジャニヲタの人たちもじわりと市民権を得て、
さらに韓流もあり、宝塚もあり……。

きっかけは私が少女漫画を十代からえんえんと読み続けて来て、ここにきてコンテンツががくっと
少なくなり、強制卒業を余儀なくさせられている状況になり、
あたらしい娯楽を見つけよう!!と思ったところからはじまってます。

くわしくは原稿にゆずるとして、
いい歳をした大人の女だからこそ、現実の(男との)どうにもならなさも知っている訳で、
だからこそこういうトキメキ系娯楽は心のバランスをとるのに
アリなんじゃないか思うわけです。

そして女のトキメキって性欲に繋がってはいるけど、そのものとは違うというか、じつに幅広くて個人差があるもので、そのあたりが一筋縄ではいかない巨大なコンテンツを産むのでしょうかね。

「卒業できない」とかタイトルつけたけど、
もはや「なにが悪いわけですか?むしろいい事ずくめなんじゃ?」
という境地にさしかかっています。

で、三回目と四回目ではジャニヲタの女性たちにお話を伺ったり舞台に行ったりしてました。


そこで昨年秋に取材させていただいたみきーるさん。
「ジャニヲタあるある」アスペクトを出したばかりでちょうど話題になっておりました。
ジャニタレへの湧き出るトキメキ、ほとばしる情熱……のあまりに
一般の人からすると不可解にすら見える数々の行動を、ちょっぴり自虐まじりに描いていて笑えます。
私がインタビューした方々みんな、このような熱気に包まれて目に☆浮かべて。
じつにシアワセそうでした。

で、今回それの第二弾が出たようで、
わざわざ送っていただきました。ありがとうございます。

ジャニヲタあるある フレッシュ

みきーる / アスペクト


まだまだ「あった」のね……。
いやはや。
一般の方は第一弾から読んだ方が用語がわかりやすいかもしれません。
私はもう慣れました。
ファンにはなれなかったんですけど、楽しそうで読んでるとちょっと羨ましくなります。

ジャニヲタあるある

みきーる / アスペクト


by riprigandpanic | 2013-03-27 13:59 | ほんっ

全部とっちまったもので……

平凡社の下中美都さんから
『もしかして乳がん!? あなたの不安にこたえます。』吉本賢隆
が送られてきました。

もしかして乳がん?! あなたの不安に答えます。

吉本 賢隆 / 平凡社



ありがとうございます。

下中美都さんとは仕事をご一緒したわけではないのですが、
もはやきっかけも忘れましたが、いくつか好みを同じくするものがあることがわかり、
ぼちぼちと〒のやり取りなどを行っております。敬愛する編集者であります。

下中さんご自身も乳癌に罹患したことが、この本を作るきっかけになったとか。
さすが、編集者!!! とうなるくらい、きちっとわかりやすく、
乳がんという病気と現在の治療方法の全体がわかるようになってます。
なんというか、美都さんらしい本だなあーと思いました。

乳がんと一口に言ってもがん細胞の質から進み具合から多彩なので
だいたいみんな不安に駆られて調べまくるらしいです。

私はまあ、病気中も本当に興味なかったし、じつのところ今もあんまりないし、
なにより全部とっちゃったから、次になるなら肺とか骨とか他の臓器ということもあり、
ざっと拝読するにとどめさせていただきました。が、とてもよくまとまってます。
ああ、なるほどそうカテゴライズするのか、と膝打ったりしました。

さて、私は興味ないと書きましたが、
当然の事ながら、正しく新しい情報を持っていたほうが、
納得のいく治療を受けられます。それはもう絶対に絶対に。
やさぐれないほうがいいです(笑)。やさぐれちゃダメ!!(笑)

いま女友達が乳癌になったら
やさぐれないようにサポートするつもりでおりますし。

ですんで
ネットで情報迷子になったら、ぜひこの本を。


同封していただいた「がんサポート」のコピー、美都さんが乳がんになってからの経緯のインタビュー。幸田文の選集を作られたたそうで。さっすがーーー。
そして同じノルバデクス服用でも、
副作用もいろいろ違うのだなあと思ったり。

下中美都さん、ありがとうございました。
お仕事柄難しいでしょうが、お互いストレスレスを目指しましょう。

そのうちお目にかかれたら嬉しいです。
by riprigandpanic | 2012-10-02 16:34 | ほんっ

この製本……

今日届いた

『新世紀読書大全 書評1990-2010』柳下毅一郎 洋泉社

新世紀読書大全 書評1990-2010

柳下 毅一郎 / 洋泉社




凄い書評集です。中身については私はこれ一気読みしないで
ぼちぼち一日一頁ずつくらいの感じで読むつもりなんで、
すんません。まとめた感想は書けません。


んが、造本の凄さについてどうしても書いておきたいので。
マニアックですみません。


奥付までで653頁という大著にもかかわらず、ツカを実測したら29ミリ。
本文紙がとにかく薄い。なのに裏映りない。
同じくらいの厚さの普通の上製本と比べてみた。
本文紙もよくあるクリーム色の、あれ。名前しらないけど。
こんな感じ。二ミリボールの表紙分、載せて置いて、同じ高さにしてます。
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で、こちらの本は、本文紙奥付まで数えると535頁しかないんです。
いかに薄いかがわかるでしょう。

しかもこの本の開きの良さはなに?!
驚くほどよく開く。だから読みやすい。
紙目が強いんです。抄紙のスピードが速いと目が強くなるんだったかな。
横によくしなるようにできてる紙をわざと選んだんだろうなあ。
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これは開きの悪い本の例。
いや、悪いというほどではなく、普通です普通。

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紙も厚くて重い。
これ事典形式の本なのであっちゃこっちゃと開くから、
落ち着いてくれないからちょっとイラッとする。

しかし本文紙はロット買いの単位がデカイためなのか
デザイナーがなんとかしようにも、
版元の手持ち資材でよろしく☆
みたいな事情も大きいのです。
デザイナーが選べないことも多い分野。
それにフロントカバーにお金かけたいと思うのも人情だし、
まず買ってくれないと困るからカバー大事だし。

でも本文紙というのは、本を読んでいる時間ずっと
つきまとうんです。
開きが悪けりゃムカッとするし
重けりゃ持ち運ぶたびにうんざりしたり
寝ながら読むだけで手首痛めたり

いい本文紙だと誰の気にもとまらないという縁の下の力持ち



だけど、これだけ薄くて紙目も強いとなると、
大抵の場合、湿気に敏感に伸びるんじゃないかと予測。
そうじゃない紙もあるのかもしれないけど。

それの何が困るのかというと、これ小口に文字が出るようになってます。

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小口印刷と言ってしまってるけど、その昔は小口にマーブル模様を
文字通り押し付けてのせたり、絵を書いたりしたんだけど、
現代の工業製本では、本文の脇に絵柄をずらして刷り、小口に反映させるわけです。

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昔の工作舍の本とかに、あった。記憶に間違いなければ杉浦康平氏のデザインで。

で、この小口に出る文字をきちんと出すには、
印刷のズレがまず許されない。ズレの許容範囲が異様に狭くなると予測。
なのに紙が、伸びやすいかもって……。天気ひとつで紙は伸び縮みしますし、
オフセットは水が必要な印刷…、いや、水いらないオフセットもあるんだったか?

それから、折りと、折り丁の合体接着も、正確でなければならない。
どうしても一折りの中の内側と外側でも、少しズレがでるはず。
紙が薄いから、折り山のズレは少ないかもしれないけど。

天地左右いかなるズレも最小限に抑えなければならない。

というような、幾多の試練を乗り越えてる印刷製本です。
泣けます。現場見学したことのある者としては。

感心しきり。
デザインの高橋ヨシキ氏、
編集の田野辺尚人氏、
そして印刷製本を担当したサンケイ総合印刷株式会社、
の、力作でしょう。

書評という中身を考えて、すごくよく造本設計されてる。
全ての頁、流し込めないデザイン、小口のずらし、
自分がやるとなったら発狂するよ……。
そして
実際に印刷製本に関わった人も、よくがんばったと思う。
こりゃー大変だったのでは。涙。


労力を使ったから、大変だったから、

買ってくれ


制作に関わった方々が
言いたいのかどうかもよくわかりません。
(本意でないかもしれない)
どんなに苦労しても出来がよくなけりゃ仕方ないし。

それでも脇からあえて言わせてもらえば
この本を高いとは思わないで欲しいのです。
そもそも中身だけでも
これくらい払う価値ある本に、
これだけの手間をかけて作って
それがちゃんと効果的になってんですから。




私はこの先老化も進む事だし、
たいがいの本は電子本で構わんと思ってるクチですが
こういう本は、電子化したくないです。手でツカを掴んで、
この妙に薄くてぱりっとしてるのにざらついた紙をめくりながら、
小口のざらざらを指の腹で撫でながら
読みたい。

造本のすべてが、柳下氏の文章に呼応するように思えるから。





えーフェティッシュ炸裂な長文で失礼しました。
仕事に戻りますはい。
by riprigandpanic | 2012-09-27 01:38 | ほんっ

毛のない生活

毛のない生活

山口ミルコ / ミシマ社


ミシマ社の三島さんから手渡され、
読もうと思いつつも、なかなか開くことができなかった。すんません。
9Gくらいの圧力がかかっていた。読めば自分が手術を繰り返していたときのことが蘇る。
それがなんとも怖かった。はい、怖かったんですよー。

自分が病から遠のきたがっているんだと思い知りました。
元気になればなるほど、とはいえ今現在の私は腰痛に悩まされているんだが、
ともあれ傷口がかゆいだの、左腕がしびれるだの、ホットフラッシュだ、
乳首が残るか残らんか、シリコンいれるかどうか、
などというのが日常だった頃は、
そんなに怖くもなく、楽しくもないけど人生こんなもんだろ的に
やさぐれやり過ごしていたのだけれど、

元気になればなるほど、もとにもどるのが憂鬱になる。
いつかは戻るんだろうけど(うちは父方も母方も凄い確率で癌に罹患しているので、このまま高齢になって癌以外の病気で死ぬ確率はとても低いとは思っている)な。


しかし病気とはその人の生き方そのもの。
おんなじ乳癌であっても、がん細胞の性質の違いもあろうが、まあそれすらも個性と言えるし、
有効な治療方法も違えば、選択の仕方によっても違ってくる。受け止め方も、人それぞれ。
これまでの暮らし方をどうとらえ、これからどう行きて行くのかも、やっぱり人それぞれ。
この本を読んでいると、どうしても自分のビフォーアフターの暮しぶりと比べてしまう訳ですが、
まるっきり違う。びっくりするほど違う。

著者と私は
ほぼ同世代にして同じ業界とはいえ、天辺と地辺にいたわけですから、違って当然です。

かたや忙しすぎ、稼ぎ過ぎ、贅沢しすぎて病み、
かたや貧困とやりたくない仕事と割りに合わない仕事の負のループで病んだわけです。

これまでの暮しで心身を痛めつけていたのはおんなじなんですがね。

これからは身体も心も気持ちよくいたわってやらんとな、と思う気持ちは一緒なんだけど、
それで実践してる事も、思い至る事も、見事に違う。

これまでの暮らしを見直して、ミニマムにしようとしているというか、せざるを得ない彼女と、
もうすこしだけ人間らしい暮しにしようとしている私。

はい、仕事をいただけている間だけでも、居心地の良いベッドルームを作ってたのしく寝ようじゃないかと、生まれてはじめて思っています。当然身の丈に合わない贅沢なんじゃないかと、ビクビクしています。でもたぶん老人になって、仕事もなくなったらまた畳の小さなアパートに湿った布団しいて寝る暮しなんだろうから(山にこもりたいところだが)、向こう十年くらいはいいかなーとか考えてみたり。ビクビクしながらも、どっちかと言えば、拡大傾向な私です。

彼女も私も、あと五年でどんなふうに落ち着いて行くんだろうかと、余計なお世話だけど、考えてしまう。癌は長い長い病だもんで、完全に縁が切れたと思うことは、この先もない。で、そのなかで、やっぱり治療期間に得た痛みの記憶がね、ふつふつと、「これまでとは違うバランス」を求め続けてしまうはず。方向もやり方も違うけど、それはとてもよくわかります。

きっと彼女はいいペースで仕事を少しずつ丹念にこなしてゆくのではないか。いや、きっと(優秀な編集者だった人はフリーになっても大変優秀なのである)そうなるでしょうし、自分だってそうありたいと思ってるんですがね。いかんせん私は仕事がのろすぎたし、今も早くはないから、焦りまくる日々。あんまり身体に良くないです。


それと
抗がん剤の治療はやはりとてもツライんだなと、読んでみて思った。痛々しかった。
毛の抜けた皮膚は、痛いものなんだ。知らなかった。そして髪が抜けることに関しては
自分はそれほどショックを受けないんじゃないかと思っていたけど、それもやってみないと
どう感じるのかはわからんな、と思い直したのでした。

ホルモン療法と一緒で、どうツライのかは、人それぞれだから、
彼女が書くように、やっぱり結局自分で味わってみるしか、ない。

そしてやってみてキツかったからやめたという彼女のやり方は、
私にはとても腑に落ちるものだった。

結局はやってみないと、わからないことなんですよね。



癌について書くのは、なかなか億劫なことなので、
この際だからついでに書いておくと、
シリコンの胸は、案外なじんでます。
ちょっとウワツキであることの不便さは
あるものの、それでもなじんでます。

見た目もうっすり脂肪がのったのか、自然に見えて来た。
自分が不自然さに慣れただけなのかもしれないけれど。
触り心地もこころなしか柔らかくなったように思う。

麻痺していた感覚も、全て戻っている。
切った分だけ、だから左右それぞれ三回麻痺したんだけど、
毎回よく蘇るものだと関心する。

傷も以前より赤みが落ち着いて来てます。
たまに皮下に泡のようなものがぽこっとできるんだけど、また消えて行く。
最初は焦ってセンセイに相談したけど、この感触、
癌なわけないじゃんと笑われて、ムッとしたけど気にならなくなりました。
しかしあれは何なんだろうか。
なぜたまにできては消えて行くのか、理由が知りたいところではある。

もしゼンテキしないで放射線治療してたら、今頃どうしていただろうかとか、
日常ではほとんど考えませんし、切った乳腺に未練を感じる事も、ないです。
たぶん違う自分がいた(もしくはこの世にいないか)でしょうが、
やっちまったもんをどうこう思い患っても仕方ないんで。
イヤな過去と同じで、考えない。思い出さない。ただそれだけ。

いまのところ、そんな感じです。
by riprigandpanic | 2012-04-30 02:51 | ほんっ

メラメラと

『飼い喰い』トークイベントはようやく一段落いたしました。
ご来場くださったみなさま、ありがとうございました。能町みね子さん、服部文祥さん、上原善広さんと、それぞれ全然違う切り口で密度の濃い話ができたので、こちらとしてもやりがいあり楽しかったです。ま、へとへとにもなりましたが。
「月刊世界」誌上で対談してくださった角田光代さんともども、本当にありがとうございました。
それと、
たくさんの媒体で取り上げていただきまして、恐縮です。

ブログに書けませんでしたが、16日にはニコ生ノンフィクションにも出していただきました。
藤井誠二さん、湘南びゅあハムの平井三郎さんも、どうもありがとうございました。
平井さんは弁が立つのでどんどん話をする場を作ったらいいと思いますよ。

インタビューやラジオなどがまだちょこっとあります。
媒体はまだ申せませんが、稲泉連さんにインタビューしてもらえるのが楽しみです。
あの去年行われた週刊ポストの大暴走鼎談を綺麗にまとめた手腕を見せられて以来、もう一度お目にかかったらお礼を言わねばと思っていたので。

そのときの大暴走の戦犯の片割れ、服部文祥さんとは、こないだのトークでもお客さんをはるか遠くに置いてけぼりにして、バンバントチ狂って爆走しまくりましたが、それは杉江さんが活字にできない部分を丁寧に削ぎ落としてくださり「本の雑誌」に収録されますので読んでやってください。はっきり言って面白いです。

さて、本題です。
高野秀行さんの新刊

未来国家ブータン

高野 秀行 / 集英社

「未来国家ブータン」

私がブータンに興味があったのは、なんだか遥か昔のことのようで、
今なんだか幸福度が高くエコだということでもてはやされているのを凄まじく遠目にみていたくらい。

高野さんは独特の感覚で、ブータンという国にちょきちょきと、歩く速度ではさみを入れてゆく。歩いた分だけで、それがブータンの全てではないのに、すごくいまのブータンの空気が伝わってくるのだ。上手い。人々がなにを恐がり、気にして、楽しんでいるのか。彼らが幸福を感じて暮らしている理由も検証しているのだが、程よく冷静。憧れたところで、いまの日本がブータンになれるわけがないしな。

食肉や動物を殺すことに関するタブー観、差別の歴史などにも触れているのはありがたいところ。

しかし一番うなったのは、
「それにしてもなぜここが国家なのか」という問いなのだった。そうそう、これってみんながブータンに対してなんとなく思いながらも無意識に引っ込めてしまいがちなんだよね。ミャンマーや雲南省など?周辺の地域を丹念に歩き旅してきた高野さんがつぶやくからこその深みと説得力で、迫る。


ちょうど先日私はイスラエルを取材してへろへろになって帰国してきた。数十キロ先では空爆が繰り広げられているにもかかわらず、それが信じられないくらい静かで美しいゴラン高原を見て、入植第三世代のイスラエル人たちと話をしながら「国家ってなに」「ユダヤ人てなに」という問いに向き合っていたのだった。

しかし取材は「屠畜紀行」のためだったので、そうそうたくさんは書けない。ああ、私も一冊まるまるひとつの国で書いてみたいぞ、ちくしょう!!と、「未来国家ブータン」を読みながらもだえてしまったのであった。ていうかだんだん食肉とは別に、イスラエルもう一回取材して一冊書きたい気分がたかまりつつある。高野さんのせいです。

次の本になるのかどうかわからないけれど、高野さんはソマリランドの取材もしている。ここでもまた高野さんの目と足でたどられた「国家」を目にすることができるに決まってる。今からものすごく楽しみなのである。
by riprigandpanic | 2012-04-21 02:46 | ほんっ

変わったのだろうか

ミシマ社の三島さんが本を出した。
ミシマ社という小さな出版社を立ち上げることについての話です。

計画と無計画のあいだ---「自由が丘のほがらかな出版社」の話

三島邦弘 / 河出書房新社



いやもう何年も本を出す企画を三島さんとすすめているのであるが、なかなか進みません。
すいません。取材をルーティンワークの間に入れるのが、本当にへたくそでして。

という謝罪をかねて先月はじめてミシマ社の社屋をたずねた。創立何周年だっけな、のパーティーだったので。不思議な場所だった。

人がたくさんいたこともあって、よくわからないまま帰宅。

本を読んでみて少しわかりました。

三島さんはほんとうに理屈抜きで、とにかく恐れず身体や手を動かせるひとなのは、打ち合わせや取材同行していただいて知っていたけれど、
まさか会社までその調子で立ち上げて突っ走っていたとは、ちょっと予想はしていたけど、
想像の範疇を超えていた。



私は出版業界に関わってもう二十年になるけれど、ほとんどの時間を業界の隅っこで小作請け負いをしていたにすぎなくて、一応まがりなりにも著者として一部の編集者や版元の目に留めていただけるようになったのは、ここ二、三年くらいのものです。ペーペーもいいところです。
いろいろ不自由を感じます。斜陽の業界で、売れない、ということももちろんありますが、そうでない慣習的なところでの不自由をいろいろ感じます。口に出して言わないのは仕事が来なくなるのが怖いからそれだけですよもちろん。あったりまえじゃん。それと目の前の人に言ってもしょうがないか、的なことが多過ぎるから。もはや社会はそうやってできているのだと思いはじめました。たいへん遅まきながら。

そのかわり、なぜそうなのかを知りたいので、若手の編集者の方々が持っておられる憤懣はわりと丹念に聞かせてもらいます。ただ最近それもすこし飽きて参りました。版元や流通が陥ってる問題を、いまの私の立場ですこしでも、ほんのすこしでも変える事は不可能だということがだんだん私なりにわかって来たから。

三島さんは中堅版元の編集者として、そこらへんの憤懣ときちんと向き合って、打破する手段として、新規参入、つまり自ら出版社を立ち上げる事を選んだ。やりかたとしてはかなり無茶だけど、気持ちにブレがないから、なんとか行くんじゃないかって関わった人たちみんなが思ってしまう。そういう人だし、そういうスタッフを集めて、そういう会社にしてる。おもしろいです。

三島さんの本を、こうすれば何かが変わるとか、そういう読み方をするべきではないと思う。えーとそういう方法が書いてあるようにも思えない。
ただひたすら無尽蔵のエネルギーをもって目の前のことをする。それだけが不可能を可能にする、のかもしれないと、そういうことです。とにかく止まらなきゃ少しは進むというか。必死に走れば多少は前に進むというか。

私もけちくさい躊躇や不満その他のいろいろは折り畳んで(捨てられるような人格者ではありません)、莫大なエネルギーを孕む本を書いて、売れない市場に出して売るしかない。十年前なら五倍は売れたのにと思うよりは、五倍のエネルギーをもった本を書けば、十年前の売れ行きと同じ数字が出せる、つまりはたくさんの人に読んでもらえる、かもしれないと思って書くしかない。どちらかというと省エネで生きていきたいわけですが、まあここはしかたないかなと。

今の私にはそれくらいしかできることはない、ということに、気づかせていただきました。

そういうわけでがんばりますから、三島さん……。ほんと、すんません。うすのろで。


私は3.11以降の世の中ががらりと変わったとは、あんまり思っていない。災害によって手助けしていかなければどうにもならない人が多くなって、景気がさらに悪くなって、消費動向とか、変わった部分はあるけれど、社会のシステム的には変われてない部分がほとんどなんじゃないのかと思うし、もっと広義でいえば、なんにも変わらない。人はひとりで生まれてひとりで死んでいくだけです。生きてる間は、離乳を終えれば生物の死骸を摂取しつづけます(点滴で生存するばあいは別かな)。糞袋ですから。僭越ながらそこからぶれない本が書けたらいいなと考えております。

というわけで、いろいろあって(本当にいろいろ大変ではありましたが)滞っている仕事を
なんとかするべく、
気合いを入れようと思います。はい。はい。はい……。
by riprigandpanic | 2011-11-30 01:40 | ほんっ